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登山小説書いてます(3)

島田の上司「島田くん、もう上がっていいよ。お疲れさん」
時計の針が19時を回り、早番の最終業務を終えた私に職場の上司から声がかかる。また遠くの方で接客をしていた佐々木がこっちを見て、お客様に分からないようにグッドポーズをして微笑んでいた。
今日は21時に、河西夏海と電話で話をする約束をしている。一刻も早く家に帰らなければならない。皆にお疲れ様の挨拶をしてロッカーで私服に着替え、足早に駅の方へ向かう。
こんな焦っているようで、心躍る気持ちになったのは何年ぶりだろうか。仕事の時には感じられなかった、未知の好奇心と言うべきか。それでいて心地良さと不安が入り混じり、胸の奥が騒つくような感覚と言えば良いだろうか。とにかく遅れないように急ごう。スーパーに立ち寄ることもなく家路に向かい、最後には息を切らしながら玄関のドアを開ける。そして靴を揃えることもなく脱衣所に向かい、湯船に浸かるのではなくシャワーを浴びた。別に会うわけでもないのに何故か身体の汚れを落とし、自分を清潔にしないと気が済まなかった。部屋着に着替え時計を見ると、21時まで時間がある。ドライヤーで髪を乾かし、鏡を見ながら頭頂部の髪が薄くなっていないかを確認する。やはり髪はフサフサであってほしいし、いつまでも若くありたいと願うのは私だけではないはずだ。そんな事を考えていると、21時を知らせる携帯電話のアラームが鳴った。アラームを止め、携帯電話の画面をしばらく注視する。緊張感が強くなる一方で、電話が鳴る気配は一向に無い。テレビをつける事もなく、壁掛け時計の針の動く音に耳を傾けながら電話が鳴るのを静かに待った。時はすでに22時を回っている。一体どうしたのだろうか。こちらから電話したほうがよいのだろうか。いや待てよ、焦って電話をすると待てない男だと思われて嫌われてしまうかもしれない。ここは余裕のある男だと思わせるためにも、焦らず待つしかない。しかし、何も食べていないから腹が減る。こんな遅くなるなら、夕飯を食べておけば良かったと少し後悔した。

それから数分が経ち、あまりの空腹に我慢が出来ずシンクの下からインスタントラーメンを取り出しお湯を注いだ。時計の針は23時を回っている。今日はもうかかってこないだろうと消極的になっていたが、そう思った瞬間に携帯電話の着信音が鳴った。危うく手元にあったインスタントラーメンのお湯を溢すところだったが、即座に容器の中心を片手で掴み難曲を乗り越えた。携帯電話の画面を注視すると、河西夏海からの着信だった。直ぐに出なければと考えたが、通話ボタンを押そうとする指が震える。極度の緊張感が腹の底から首筋にかけて込み上げてくるような、それに呼応するように心拍が一層速くなる。ここで諦めたら最後だと自分に言い聞かせ、天井を一度見つめた後に目を閉じて深呼吸をする。心が少し落ち着いたのを感じてから、携帯電話の通話ボタンを押して耳に当て一言呟いた。
島田「もしもし…」
河西「夜遅くにすいません。島田さんの携帯電話でよろしいでしょうか?」
その声はほんのりと優しさに包まれたような、何処となく幼さが残る声だった。
島田「はい…そうです。河西さんですか?」
河西「はい!繋がってよかったぁ。遅くなって本当にごめんなさい。島田さんに電話しようと思ったら、友達から電話ががかかってきてしまって」

島田「いえいえ、大丈夫です」
河西「こんな遅くに失礼かなと思ったんですが、電話すると言った以上は一度ご連絡を差し上げないといけないなと思ったんです」
島田「電話頂き、ありがとうございます」
河西夏海の気遣いに嬉しさが込み上げてきたが、できるだけ気丈に振る舞うようにした。
河西「今から少しお話しても大丈夫ですか?もしダメなら、明日でも…」
自分も少し話したいと思った。
島田「少しだけなら大丈夫ですよ」
河西「本当ですか!ありがとうございます」
その後、お互いの自己紹介をしつつ最近行った山の話をした。
河西夏海は28歳で、都内の病院で医療事務をしているとのことだ。登山を始めたきっかけは職場の同期が半年前に登山を始めたらしく、その同期に誘われたのが事の発端らしい。最近は高尾山と塔ノ岳に登ったそうだ。
そしてインターネットを通じて都内に山岳会という登山の集まりがあることを知り、同期と一緒に入会したのだとか。そこで佐々木春樹と知り合い、話しているうちに島田という男に登山を教えてあげてほしいと頼まれたと言うのだ。佐々木という男は何とも強引な男である。更にイケメンなのだから、頼まれた女性は断れないのだろう。
自分はというと家電量販店で働いていることや、山はまだ1回しか行っていないことなど話せることは少ない。だがそれを聞いた河西夏海から、都合の良い日に陣馬山に行こうとのお誘いがあった。
河西「島田さん、登山用の服や道具って持ってますか?」
唐突だったため少し間が空いてしまったが、正直に家にあるもので高尾山に行ったことを告げる。
河西「じゃあ、今度一緒に山の道具を扱っているお店に行きましょうよ。きっと驚きの連続ですよ。その時に私たち初お目見えですね。今週の土曜って空いてますか?」

携帯電話のカレンダーで確認すると、3日後の土曜日は休みだったのは奇跡に近い。
島田「はい、ちょうど休みです。もし河西さんに会えるのでしたら緊張してしまいますね。ちゃんと話せるかな」
河西「大丈夫ですよ。じゃあ決まりですね!14時くらいに立川の北口にある好日山荘で待ち合わせましょう」
立川であれば、自分の住む西八王子駅からそう遠くはない。
島田「分かりました」
夜も更けお互いに明日も朝から仕事があるとの理由で、名残惜しくも電話を切った。また静寂な孤独の時間がやってきたが、いつもの寂しさはない。1時間くらい話をしていただろうか。顔が見えない相手とのやりとりはまるで仮面舞踏会とお見合いを足して2で割ったような感じだ。その緊張から解き放たれた身体は、細い糸が切れたように仰向けで畳に倒れ込んだ。テーブルに置かれたインスタントラーメンはすでに伸びきってとても食えたものじゃないが、今の自分は似たようなものだと思いつつも口元は少し笑っていた。まさか土曜日がこんなにも待ち遠しく感じるとは、誰が予想していただろうか。喜びを押し殺すように布団に潜り込み、早く土曜日にならないかと願いつつ眠気に身を任せるのだった。